池田晶子

死体は存在するが、死は存在しないのである。死などというものは、言葉としてしか存在したことはない。言葉ではない死というものを、見た人も、知っている人も、いないのである。すなわち、この世の誰ひとりとしてそれを「わからない」のである。 普通には人は、死が存在すると信じて生きている。そして死を恐れる、「無になる」と。しかし無が存在したのならそれは無ではないのだから死は存在しない。したがって恐れる理由はない。 自分が存在しなければ、世界は存在しないんだ。自分が存在するということが、世界が存在するということなんだ。 世のすべては人々が作り出しているもの、その意味では、すべては幻想と言っていい。 善悪を判断する基準は、自分にある、自分にしかないんだ。 人間が人間を無条件で愛するというのは、ものすごく難しい。 宇宙の全体はビッグバンによって始まったということになっている。でも、だとすると、ビッグバンの前には何があったのだろう。 物質があることの確実さは、実は不確実なことなんだ。でもそれを不確実であると考えている自分がある。こちらは絶対確実だ。 本当は「今」しかないのだ。どんな古い星も銀河もも、それを見ていると考えている今のこの自分より確実なものではない。 自由とは、精神に捉われがないということだ。 死の怖れにも捉われず、いかなる価値観にも捉われず、捉われないということにも捉われない。 何でもいい、何をしてもいい、何がどうあってもいいと知っている、これは絶対的な自由の境地だ。